私が大学に入学したのは昭和49年 この年は長島茂雄が巨人軍を引退した年 で22歳の別れやなごり雪が歌われはじめました。そして、この年は分業元年とも言われております。左下の図は我々の現役時代に用いられた物で、現在は第七世代に突入していると思われます。分業元年と言いますのは、日本においては医師と薬の結びつきが強く、厚労省はそれを打破したくて処方箋の発行手数料を大幅に上げて医薬分業を行う事で医療費の削減を目標としていましたが、その思惑は進みませんでした。薬局の設置条件の緩和やOTC薬の価格の自由化、薬の薬価の引き下げを行い、大手ドラッグストアーが出現し、薬価差益もなくすことで医師が処方箋を発行して薬局がそれを応需して調剤を行う仕組みが構築されていきます。私が薬局を立ち上げたのが、平成9年で分業率は40%位だったでしょうか?現在では分業率は大幅に上昇して、分業していない所が珍しくなってきています。分業・分業と叫ばれていた時に、在宅医と知り合い在宅への道を進み始めます。当初は、何を行うのかわからず、相談する相手も見当たらないでいたのですが、J-HOP(一般社団法人全国薬剤師・在宅療養支援連絡会というのがたちあがり、熱い志を持った人間が集まり在宅についておおいに語り合いました。現在の在宅の基盤を築き上げたと思います。初代の南関東ブロック長にも任命され多くの方々と知り合い、交流も深めました。モットーがあります、頼まれごとは一つ返事で(本来は二つ返事)ハイと 在宅の場で薬剤師の行うことの基本は、みる・みる・みる(みるを漢字に変換すると色んなものが出ると思いますが、全てに当てはまる事を行い、情報を他職種と共有する)物(医薬品)ではなくヒト(患者さん)してみて行かねばと考え、下の調剤業務の変化そのものを歩んできたようです。